苺畑より In the Strawberry Fields

苺畑カカシと申します。在米四十余年の帰化人です。

馬鹿フェミがトランスジェンダーに負ける理由、男が差し伸べる手を受け入れないから

先日歌手のマーシー・グレイが男は女になれないという常識的な発言をしたことで叩かれ、たったの三日で過激派にひれ伏してしまったという話をしたばかりだが、それについて保守派ポッドキャスターのマット・ウォルシが彼女をツイッターで批判したことから、トランスジェンダリズムについては勇気ある批判的な発言をしてきた作家のJ.K.ローリングとちょっとした口論になった。

マット:悪いがトランス活動家からの意地悪なコメントが怖くて「女性」の定義を公の場で放棄するような女性は、どんな批判を受けても仕方ない。こうなったのも、もとはと言えば、こういう骨なしの臆病心こそが原因なのだ。

J.K.ローリング:限りのない命や強姦の脅迫、生きる糧を失う脅迫、雇用主が標的にされ、直接嫌がらせをうけ、家族の住所がオンラインで晒され、爆弾作成のマニュアルが送りつけられてくるのは単なる「意地悪なコメント」なんかじゃない。この問題に立ち向かう女性達がどんな目にあってるか解らないなら、黙らっしゃい!

マット:私はあなたのこの件で見せた勇気には敬意を払います。しかしながら、トランス活動家の要求に簡単に折れて真実や事実を諦めてしてしまう人が多くいすぎます。このような臆病心こそがこの話の悪者なのです。彼らは責任を取るべきです。

ローリング:あなたの映画は性自認連中の意味をなさない理屈や危険な思想をうまく暴露したと思います。私が過去に尊敬していた組織がこの思想を無条件で受け入れてしまっています。しかしながら彼らへの抗議は私のやり方でやります。個々の女性を「臆病者」などと呼ぶのではなく。

マット:たしかに悪いのは彼ら(TRA)のほうです。私も壇上のない若い女性達がトランス暴徒らに攻撃されることには同情しています。しかしマーシー・グレイは有名な歌手です。彼女が折れてしまったことは特に残念だと思います。

とまあこんな具合だ。ツイッター上では多くの保守派がローリング女史に対して、マットはこの件に関して女性達の味方だ、トランスジェンダリズムとはあなたと共闘できる仲間だと告げたが、ローリング女史は断固としてマットの差し伸べた手を拒否した。

ローリング:(前略)私は「ターフを殴って殺せ」軍団にずっと立ち向かってきましたが、一度たりとも、この問題をフェミニズム西洋文化で最悪の出来事だと思っているような男の手に委ねでようと思ったことはありません。

左翼の多くの女性達のように、私はあまりにも多くの自称リベラルが性自認運動の男尊女卑やそれが醸し出す女性や女児への脅威を黙認していることに絶望しています。ウォルシの映画が多くの左翼が怖がっていえないことを暴露したことは確かです。

しかし生物学的に女性が存在するという考え(加えて水が濡れているとか月がチーズで出来てるわけではないこととか)に同意できるからといって味方であるとは言えません。私は女性は女性特有の脅威に瀕し特異な必要性もあり、フェミニズムこそがその権利を守ることが出来ると信じます。

ウォルシはフェミニズムは腐っていると信じ、自分と同意しない女性を蔑むことを基本としています。彼は淡い色のピンクと青の旗に隠れて「黙れ、さもないとぶっとばすぞ」と言ってる連中と同じように私の仲間などではありません。

私は以前にも書いたと思うが、もともとローリング女史の左翼フェミニズム振りは嫌いだった。彼女は典型的な左翼馬鹿フェミであり、私と意見の合うことなど何一つなかった。しかし、TRAの脅迫に負けず女性の権利を守るという信念を貫き通しているという点に関してだけは敬意を払って来た。

マット・ウォルシもずっとそう言って来た。だがローリング女史はそれを認めることが出来ないのだ。女性の権利と安全を守るという信念よりも、男なんぞにフェミニズムを売り渡してなるものかというプライドの方が勝ってしまうのだ。なんと情けないことだろう。

これに対するマットの返答は右翼保守典型の紳士的なものだった。

私は過激派トランス軍団による女性や子供たちや現実への攻撃に立ち向かう人となら誰とでも一緒に戦う用意はできている。ローリングや多くのフェミニストたちはそれを拒否した。仕方ない。しかし二人の子供本ベストセラーの著者が協力できないのは残念だ。

私はいつかローリングが立ち止まって、彼女が何故この件を除いた全ての件でトランス活動家に同意できるのか考えてほしいと思う。彼らは基本的なところで同じ社会観を持っているのだ。だからこそフェミニズムジェンダー概念を阻止することができなかったのだ。これは考える価値があると思う。

私は以前にトランスジェンダリズムは過激派フェミニズムの賜物であると書いたことがある。

最近よく耳にする英語にジェンダークリティカルというのがある。これはトランスジェンダリズム思想に批判的な考えを指す。おもしろいのは、これまで左翼リベラルを気取って来た過激派フェミニストたちが多少なりともジェンダークリティカルな意見を述べると、右翼アジェンダの回し者とか、裏切り者とか、右翼保守の人がトランス批判するより叩かれてしまう。だいたいからしてターフなどという侮蔑語もトランス排除的過激派フェミニストという意味だ。しかしながら、私から言わせるとトランスジェンダリズムを生み出したのは、まさに過激派フェミニストなのではないかと思うのだ。なにしろ男女の違いは社会構造だと言い出したのは過激派フェミニストたちなのだから。(略)

ところが過激派フェミニストたちはそうした性的な傾向を無視して、男に出来ることは女にも出来る。男女の能力に差はないと主張してきた。だから、ある種の分野に女性の数が少ないのは女性が差別されているからだと決めつけた。もし男女の能力に全く差がないのであれば、結果の差は差別からくるものだと結論づけられる。男女の差は単に社会構造なのだとすることは過激派フェミニストにとっては非常に都合の良いものだったのだ。

生物学者が男女の脳の働き方には違いがあるなどという話を始めれば、それは男女差別につながるとして、そうした言論を弾圧するフェミニストたちもいた。男女の肉体的能力差を指摘することすらミソジニーだと責め立てていた。

もし男女の差が肉体的能力や適応性の差ではなく単に社会構造によるものだとすれば、男性と女性が入れ替われるという理屈はそれほど非常識なものではない。むしろ自然な成り行きだと思える。男女の差は社会構造だと言い続けて来たフェミニストたちにはその理屈を使って、だから男も女になれる、というトランスジェンダリズムに反論するのは難しい。(2019年 苺畑カカシ)

女性の権利を守るためには、一部の女たちだけが騒いでいてもダメなのだ。多くの男性が女性達の言い分にも一理あると同意し女性を差別するのは不当だと納得しなければ男性が牛耳る社会を変えていくことなどできない。奴隷制度が終ったのも、不公平な黒人差別が公民権運動で撤廃されたのも、多数派の白人たちが、これらの差別は不当だと考えたからこそ実現できたことなのだ。

圧倒的な力を持つ支配階級が弱体な少数派に迎合する必要がどこにある?自分らの権限を守ることだけが目的なら少数派など徹底的に弾圧すれば済むことだ。それなのに何故白人は組織的な黒人差別を止めたのだ?戦争をして貴重な白人の血を流してまで奴隷制度を廃止したのは何故なのだ?男たちは何故女たちを平等に扱おうなどと思ったのだ?

それは多数派の間で少数派を虐待することは道徳的に正しくないと思う人が存在したからだ。

フェミニズムが腐敗して常に失敗する理由は、自分らの作り上げた右翼保守や男たちへの偏見を捨てきれないからだ。それで本来なら力強い味方となってくれるひとたちが差し伸べた手を拒絶するからだ。

一部の過激派フェミニストたちはマットや他の右翼保守たちがTRAに立ち向かい始めると、「私たちの方がずっと前から抗議してたのに、途中から来て運動をのっとらないでよ」とバカなことを言い出す。あんたらこの戦いに勝ちたいの?それとも活動家の間の勢力争いにしか興味がないの?

私もマットと同意見。もしもフェミニストたちがトランスジェンダリズムと本気で戦う気があるなら、協力者として拒否はしない。だが、左翼フェミであることのほうが女性の権利を守ることより大事だというなら、あんたたちとトランスアライたちと大した違いはない。

マットの言う通り、ローリング女史及びジェンダークリティカルの女性達は、女性の権利や安全を守ろうとしない左翼フェミニズムにこそ問題があるのだと、いい加減気が付くべきなのではないか?