苺畑より In the Strawberry Fields

苺畑カカシと申します。在米四十余年の帰化人です。

トランスジェンダリズムを性自認至上主義とするのは単なる陰謀論なのか?

依田花蓮 (よだかれん)氏がツイッターで紹介していた『トランスジェンダーと陰謀論』というのがあったので、読んでみようと思う。記事自体は長くいくつかに別れているので、私もそれに合わせようと思う。

トランスジェンダー活動家(TRA)はやたらとTRA批評家たち(英語ではGender critical =GC)のことを陰謀論者だと否定するが、我々が、TRAの言う通りにしたら○○ということが起きる、と予言してきたことが常に現実となっている以上、彼等のいう陰謀論など全く意味がないとは思うのだが、まあ一応読むだけは読んでみよう。

この記事は全くトランスジェンダーについて無知な人たちのために書かれているため、知識溢れる拙ブログの読者諸氏にはたいくつな話が多い。なののでその部分は飛ばした。ただやたらと持って生まれた性のことを「出生時に割り当てられた性」と言ってみたり『性別(sex)』と『ジェンダー(gender)』は異なる概念ながらも複雑な相互作用の関係にある」(強調は原文のまま)などと言ってるのでまあ、後に何が続くのかは追って知るべしといったところだ。一応彼等のいうトランスジェンダーの定義は提示しておこう。

トランスジェンダー」とは出生時に割り当てられた性別と自分のジェンダーアイデンティティが異なる人のことです。逆に、出生時に割り当てられた性別と自分のジェンダーアイデンティティが一致するなら「シスジェンダーと呼びます。

トランスジェンダリズム差別用語

さて、この記事が問題にしているのは「トランスジェンダリズム」という概念だ。ちょっと前保守派ポッドキャスターのマイケル・ノールズが「トランスジェンダリズムは駆除されなければならない」と語ったことを「トランスジェンダージェノサイド」を訴えていると散々批判したTRAが居た。しかし概念を批判することと属性を批判することとは違う。

しかしこの記事では、トランスジェンダーという人々と概念とを区別するというのは単なる口実であって、トランスジェンダーの人びとをトランスジェンダリズムとすることで、トランスジェンダー全般を批判する口実に使われるようになったという。つまり「差別主義者の愛用ワード」になったと主張するのだ。

いやいや、それは話が逆だ。これは左翼リベラルの常套手段だが、彼等は自分勝手な言葉を作り出し、人々が良く分からないうちにその言葉が普通であるかのように広めてしまう。ところがその言葉が実際どういう意味を持つのかということを人々が理解し始め、その奥にある悪質な要素に気付き始めると「差別用語だから使うな」と言ってまた新しい言葉を使い始めるのだ。もしトランスジェンダリズムという言葉が腐敗してしまったとしたら、それをやったのはTRA当人たちである。

日本でも反トランス論者や団体の間で「“トランスジェンダリズム”」という言葉は用いられ、性自認至上主義」という訳語をあてることもあります。それに、反トランス論者は「“トランスジェンダリズム”」を主張するトランスジェンダー権利運動支持者のことを「TRA」(「Transgender Rights Activist」の頭文字)と呼んで冷笑することがあります(強調は原文のまま)

これにも笑ってしまう。TRAとは単に「トランスジェンダー権利運動支持者」という意味であり、それが嘲笑されているとしたら、その種にされるような行動をしてきた方に責任があるのであって、嘲笑する側に責任を押し付けるのは話が逆さまである。また性自認至上主義はトランスジェンダリズムの訳語ではなく、TGイズムの性質を表現したにすぎない。そういう表現になったというのもTRA達が現実の身体性別ではなく性自認を常に優先する姿勢が顕著になってきたからだ。これも我々批評家が始めたことではなく、TRA自身が始めたことなのである。

記事ではその他にトランス批判派が使う「トランスセクシュアル」という言葉や、トランスジェンダー性同一性障害を持っていないということをトランス批判派は武器に使っていると語る。

他にも日本では「自称にすぎない“性自認”は問題で、医者の診断である“性同一性”が望ましい」というような論調を反トランス論者が展開することがあります(松岡宗嗣;前述したとおり、「性自認」も「性同一性」もどちらも「gender identity」の訳語で意味は同じです)。言葉の意味を反トランス側に都合よく変容させて主導権を握り、トランスジェンダーを病気(精神障害)扱いに留まらせようという狙いが透けています。

この「『性自認』も『性同一性』もどちらも『gender identity』の訳語で意味は同じ」というのは嘘である。性自認は英語ではSelf ID(セルフID)と呼ばれており、性同一性違和はGIDとして区別されている。なぜなら前者は本人が自分をどう思っているかということだけだが、GIDというのは精神疾患の病名だからだ。我々がトランスセクシュアルトランスジェンダーを分けるべきだと考える理由は片や性同一性障害という精神疾患に病む人と、片や単に自分は異性だと主張しているだけで身体違和など全く持っていない人たちとを同じように扱うのはおかしいからである。

もちろんそれをいうと世界保健機関(WHO)もGIDは病理枠から外しているとTRAたちは主張する。しかし、WHOがGID精神障害ではないとしたのは、GIDについて新しい医学的な発見があったからではなく、単に国際的なTRAの政治力に迎合しただけの話であり、実際に性同一性障害を持っている人々の精神状態が変わったわけではないのだ。

病気とただの概念を故意に混同させることにより、TSもTGも同じだとして常にGID当事者を表に立たせて「かわいそうな病人をいじめるな」とやるのが彼等の作戦なのだ。

性自認の主張さえあれば女性スペースに入り放題」はデマなのか?

反トランス論者や団体は性自認が女だと言えば、その人は女性スペースに入れてしまう。たとえ男性器を有している人でも!」と主張し、「“トランスジェンダリズム”」はそういう事態を引き起こす危険性があると語っています。

あまり知識が無い人であれば「そういうものなのか!」と不安に駆られそうな、いかにも絶妙に恐怖を煽りたてる主張なのですが、これは専門家や弁護士が説明しているとおり、事実ではありません立石結夏松岡宗嗣)。

と言いながら、なんとこの記事ではすでに現状でもトイレはきちんと身体の性別で分けられているのではないと主張する。

現状は違います。あなたはトイレに入るとき、出生時に割り当てられた性別をチェックされたことはありますか? 性別の記載のある身分証明書の提示を求められたり、ボディチェックされたりしましたか? ないはずです。

この間も依田花蓮氏がツイッターで、もうすでにあなたの隣でもトランスジェンダーの人がトイレを使っているかもしれませんよと言っていて、私はそれって脅迫に聞こえますけど、と答えたばかりだ。

現在トイレは身体の性別で分けられているというのが原則であり、その規則に違反してもばれていない人がいるからトイレは事実上男女共同なのだなどという理屈が何故通ると思うのか?こんなことを言うから実際に性別適合手術を受けて女性として埋没しているGID当事者までもが批判のやり玉に挙げられてしまうのだ。当事者が生きにくくなるようにしているのは誰なのだと聞きたい。

記事ではすでに女装男がの女子トイレ使用は行われているので、差別禁止法が通ったからといって「この既存のトイレの運用に変化はありません」などと言っている。もしそれが本当なら既存のトイレの運用には大問題があるのであり、これを是正すべきだという動きがさらに強くなるのではないか?

それからお風呂についても、「公衆浴場は日本の場合は身体的な特徴で区分することになっています」という、またまた彼等の常套手段であるお惚け理論が繰り広げられる。我々は現在の法律上どうなっているかなどということは語っていない。もし性別が性自認で決められるということになったら、こんな規則は全く意味がなくなると言っているのだ。記事ではリベラルな埼玉県の条令ですらも風呂は戸籍上の男女で分けていると主張するが、その戸籍上の男女ですら性自認のみで変えられるようにしようと運動しているのがTRAではないか?全く彼等のいうことは不誠実このうえない。

「性犯罪者が“自分はトランスジェンダーだ”と主張すれば罪に問えない」というのは嘘なのか?

性犯罪者が「自分はトランスジェンダーだ」と主張すれば罪に問えない…ということもありません。なぜなら性別やジェンダーに限らず、性犯罪行為をしたらそれはもう性犯罪だからです。性犯罪の判断は性別やジェンダーで決まりません。性犯罪目的でトイレに侵入した時点で、誰であろうとそれは性犯罪です。

これも言い尽くされた詭弁だな。今現在は異性施設に入ること自体が犯罪と見なされている。日本では異性施設に入ること自体は性犯罪ではないが、覗きや露出は犯罪である。だが性自認で異性施設に入ることが合法になれば、髭ずら胸毛男が女児の前で勃起した一物を見せつけても犯罪と見なされないのだ。つまり覗き魔や露出狂が「『自分はトランスジェンダーだ』と主張すれば罪に問えない」のである。

そして記事はアメリカの黒人と白人のトイレが分かれていた制度を持ち出し、女子供を守るためというのは差別者が好んで使う口実であり、実際に起こり得る(いや、すでに起きている)トランスジェンダリズムの弊害を指摘することは、「むやみやたらに恐怖を煽る」行為であり「脆弱な被害者の心に付け入る」行為であり「虐待的な行為に他ならない」と締めくくる。

トランスジェンダリズムの狂気とその害毒はすでに顕著になっており、それを指摘することは陰謀論でも何でもなく、社会の秩序を守りたいと思う我々一人ひとりの責任である。

第二部へ続く。