苺畑より In the Strawberry Fields

苺畑カカシと申します。在米四十余年の帰化人です。

小児性愛嗜好は実行に移さなくても駄目なのか、答え「駄目です!」

だいぶ前からLGBTQ+のQ+には小児性愛が含まれるのかという話のなかで、含まれたとして何が悪いのか、小児に性愛を持つこと自体は実行に移さない限り構わないではないかという人の意見を聞くようになった。だが私はその度に小児に性愛を持つこと自体が悪なのであり、そのような欲望を正当化してはいけないと言って来た。しかし誰に性愛を感じるかは人の自由であって、それを行動に移さない限り誰に加害をするわけでもない、その気持ちまで規制すべきではないと反論する人が少なからずいるのである。それで本日は、なぜそのような欲望を正当化してはいけないのか、その話をしたいと思う。

先日も小児性愛を差別すべきではないと言うブログエントリーを読んだ。読んでて気持ち悪くなったので読者諸氏にはお勧めしない。

ペドフィリアは危険」の「根拠」としてよく挙がるのが、ペドファイルの欲望の対象が、性的同意が可能であるとみなすべきでない年齢であることだろう。ペドファイルは、その「定義」上、現実的には絶対に性的同意を得られない対象へ欲望が向いている。

だが同意を得られない対象と言うなら、子供だけでなく面識のないアイドルやすでに亡くなった人への性愛も危険だと言えるのだろうかとブログの著者は問いかける。

自分が求めてるのは、「同意のない行為」がなされることを阻止すること。性的同意のない対象への行為を非難することと、性的同意のない対象へ欲求をおぼえることは区別して語れるし、きちんと区別して語るべきことではないのか。(略)そもそも、あなたが本当は問題にしたいのは、「ペドファイル」の欲望ではなくて、「チャイルド・マレスター」による性暴力ではないのか。(略)加害しそうなひとやしたひとを必要な教育やケアへつなぎ、性暴力やそれを繰り返すことを共同体として防いでいくことではないのか。

著者は「同意の得られない対象への性愛(ペドフィリア)」を悪とするのではなく、「同意の得られない行為」を阻止すべきなのだと主張するが、同意のない性行為への欲望が行為に移るのを阻止するメカニズムとは何であろうか?

ある対象が性愛となるということは、その対象との性的欲望を満たしたいという気持ちがあるということだ。無論小児への性的虐待は違法である。だが法律に出来ることは実際に犯罪が起きてしまってから犯人を罰することだけであり、犯人が行為に及ぶことを阻止するためには、物理的にそういう欲求を持っている人を彼等の対象となる子供たちに近づけないこと以外にない。

だがもっと大事なことは、本人が自分の持っている欲望は悪であると意識することだ。もし本人にそれが出来ないのなら、せめて社会がそのような欲望を許さない姿勢をはっきり見せることである。ペドフィリアをLGBと同じような性指向であるかのように扱いQ+に含んで社会的に許容されるべき指向であるかのように認めるなどとんでもないことだ。

普通、道徳心のある文明人が犯罪を犯さないのは何故か?文明社会のいて普通の人がものを盗まないのは何故だ?無論窃盗は違法だが、監視カメラもなく無人の野菜売り場でも人々がお金を置いて野菜を持っていくような場所が存在出来るのは何故だ?それは誰もみていなくても罰せられる可能性が全くなくても、盗みは悪いことだという共通した道徳観念が社会にはあるからだ。

しかし社会におけるこの道徳的共通観念がなくなり法がきちんと機能しなくなるとどうなるか。それは今のサンフランシスコの無法ぶりをみていればよくわかるはずだ。

小児性愛は行動に移そうが移すまいがその欲望自体が悪なのである。社会がそのように判断しているからこそ多くの小児性愛者はそれを行動に移すことをためらうのだ。もしこれで社会がそれも正当な性指向のひとつだなどと認めたらどうなる?違法である今でさえ多い小児性虐待が爆発的に増えるのは火を見るよりも明らかである。

現にTQ+の活動家たちが子どもを性的に手懐けようと必死ではないか?

我々は決してこのような変態達の口車に乗ってはいけない。

付け足し:いままさにツイッターで子供に性行為は同意できないというツイートに対してこんなのがかえってきた。結局どんなきれいごとを言おうと本心はこういうことなのだ。

なんなんちゃんキューテストフォーエバーインザ・ワールド2023@vegan@NANANANANNNANNM

なぜ絶対合意できないと言えるんや? 判断能力なんて個別で異なるやろ。 判断能力で決めるなら知的障害者と健常者の恋愛は健常者側が変態って事やな。 ましてや知的障害者同士は恋愛するなって事やな。