苺畑より In the Strawberry Fields

苺畑カカシと申します。在米四十余年の帰化人です。

国際女性の日って何の日?次々に消される女性を表わす言葉

3月8日は国際女性デーとかいう日だったそうで、それにちなんで先ずはちょっと良いニュースから。

トランス選手の女子競技参加禁止法案、米下院委が可決 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

米国下院が生得的男性による女性スポーツの参加を禁止する法案を可決した。下院は共和党が多数議席を握っているが、上院は民主党が多数なため、まずこの法案は通過しないだろう。よしんば通過したとしてもバイデン大統領が署名するとは思えないので、これが法律になるということは今は未だあり得ない。

しかしそれでもこの法案を下院が可決したことには意義がある。なぜなら女性スポーツを守ろうとしているのは共和党であり、それに反対しているのは民主党とバイデン政権であるということが如実になるからである。有権者は次回の選挙で女子競技や女子空間を奪おうとしている民主党に投票するのか、女性の安全とプライバシーを守ろうという共和党に投票するのか、考える必要があることを知らしめることとなるからである。

何故アメリカ民主党は偽女たちの人権とやらを守るという名目で、女性競技や女性空間を女性から剥奪しようというのか、アメリカ市民は考える必要がある。若い未婚女性は民主党を支持する傾向があるが、本当にそれでいいのか、とくと考えてもらいたい。

さて、では本日ツイッターであがってきたこの国際女性デーの新聞広告を見ていただきたい。

こちらは「まず言葉から変えていく。 #国際女性デー 今朝の新聞広告」というコメント付きの広告だ。

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言葉と言うのは時と共に変わっていくというのは本当だ。しかし自然に人びとが使わなくなっていくのと、無理やり消してしまうのとでは意味が違ってくる。言葉は単に意味を伝えるというだけでなく、その時代や社会の背景があるからであり、気に入らないからとむやみやたらに変えるべきではないのだ。

ここで上げられたいくつかの例を考えてみよう。

看護婦が看護師になるというのは、看護する人は必ずしも女性ではないからそれはそれでいいが、だからといって女性である看護婦を無理に看護師と呼ぶ必要はあるのか?これは女優と俳優も同じで、俳優に女優が含まれるという理屈は分かるが、別に女優が男優に劣るというわけではないのだから、何故女優と呼んではいけないのか理解できない。特に役者の場合、男性と女性とでは全く役柄が違う。配役を決める時にわざわざ「女性の俳優」と言うよりも、最初から女優と言った方が端的に意味が伝わる。またスチュワーデスやスチュワードではなく客室乗務員(CA)、ウエイトレス・ウエイターの代わりにサーバー、などと男女を説明する言葉使いをどんどん中性化していくやりかたにも私は昔から抵抗があった。

これはもともとフェミニストたちが男女は平等であり、男女差別を失くすために、男女差が無関係な職業において男女を明確にしない呼び名を使うべきだと考えたというのは分かる。特に女医などという呼び方は、あたかも女性の医者は男性に劣るかのような印象を持つという考えだったのだろう。

だが私は思うのだが、女性と男性が平等であるということと、男女が同じであるということとは違う。同じ職種でも男性には男性の利点があり、女性には女性の利点がある。それに元来女性が中心になって築き上げた職業というものもあるわけで、その言葉を失くしてしまうと、その女性の貢献した歴史すらも抹消してしまうことにはならないだろうか?

今、トランスジェンダーなどといって、どんどん女性の存在が消されつつある世の中において、女性を表現する伝統的な言葉をどんどん消していくことが女性の地位向上につながるとはとても思えないのである。

ところで、嫁や婿の代わりに子の妻や子の夫を使うべきというのもおかしな話だ。嫁や婿にはきちんとした意味があるし使い方も違う。嫁には最初から息子の妻という意味がある。それをわざわざ「子の妻(息子と言わないところも要注意)」と言い直すことに何の意味があるのだ?では舅や姑も「配偶者の男性/女性のほうの親」とか言わなければいけないのか?いやそれだけではない。

嫁や婿という言い方には家族単位の意味がある。つまり嫁は単に息子が結婚した女なのではなく、自分の家族の一員であるという意味がある。つまりこれらの言葉は結婚という制度によって赤の他人が自分の家族になったという意味があるのである。

そのうち母親だの父親だのと言った言葉も消されて保護者1,保護者2とかになるのか?(おっと、すでにそんなことを推進している活動家達がいたっけ)。

こうなってくると、これは男女平等のための言葉使いというより、伝統的な家族という概念を破壊するための作戦に思えてくる。

ジョージ・オーウェル1984という本のなかにニュースピークという制度が描かれているが、これは政府に都合の悪い概念を抹消するために、その概念を表現する言葉をどんどん抹消していくという制度である。よもぎねこさんの言葉をお借りするなら、上記のような「言葉狩り」によって、女性の地位は向上するどころか、かえって女性という概念がどんどん消されていくように思う。

私の反応が大袈裟だと思う方は、国際女性デーの宣伝に女装男を起用したハーシーズや、バイデン政権が「勇気ある女性賞」を授与したのがアルゼンチンの性自認制度を推進した女性自認の男性であったことをよくよくお考えいただきたいと思う。 

おまけ。

「自分らしく生きようとしてるだけ」

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