苺畑より In the Strawberry Fields

苺畑カカシと申します。在米四十余年の帰化人です。

忘れてならない事実、イスラム教は政治体制

私は何度かイスラム教と文明社会とが平和共生するのは無理だと書いてきた。その理由は色々あるが、一番の問題はイスラム教は政治と一緒になった宗教であり、欧米や日本などの民主主義国家が大事にする政教分離という価値観を持ち合わせていないからである。

アメリカの憲法には政府による国教設立を禁止している。これはアメリカに最初にやってきたイギリス移民は、母国イギリスで国教に従わずに迫害を受けて来た人々だったからである。

アメリカはプロテスタントの国として始まったにもかかわらず、後にはスコットランドやドイツやイタリアからカトリック教徒も受け入れた。無論アメリカは東欧から多くのユダヤ人も受け入れている。アメリカではどのような宗教も弾圧されないという基盤があるのだ。

アメリカの道徳的価値観はジュデオクリスチャン(ユダヤキリスト教)の教えに基盤がある。しかしアメリカには国教というものはない。つまりアメリカには○○教の教えに従わねばならないという法律はない。文化的にはクリスチャンでも政治的には完全な世俗主義なのだ。

ところがイスラム教はそうではない。イスラム教は宗教であると同時に政治体制でもある。イスラム教徒はシャリア法という法律に従わなければならない。そしてこのシャリア法はイスラム教徒がどの国に住んでいても地元の法律よりも優先されなければならないのだ。だから地元の法律とシャリア法が衝突した場合、必然的にイスラム教徒は地元の法律を破らなければならなくなる。

ここが問題なのだ。

民主主義国家では法律は誰にでも平等にあてがわれなければならない。原則的に殺人犯が大金持ちのバカ息子でもホームレスのおっちゃんでも殺人は殺人として同じ法律で裁かれることになっている。だからイスラム教徒(モスリム)家族の10代の娘がモスリムではない他所の男に目配せしたとか、ヒジャブをきちんと被っていなかったとか、地元の法律とは無関係な規律を破った罪で家族の男に暴力を振るわれたり、挙句の果てに殺されたりした場合、加害者がモスリムだから無罪なんてことにはならないし、なってはならないのだ。

だがモスリムは地元の法律も習慣も宗教も尊重しない。数が少なく自分らの要求が通らないであろう時は黙って大人しくしているが、地元文化が異教徒に寛大だったり、やたらと気を使ってくれる社会だったりすると、それを弱みとして付けこみ地元の寛容な法律を逆手に取ってどんどん自分らの要求を押し通してしまう。

最初は何気ないことからはじまる。例えば室内での被り物は駄目という校則があるのに、モスリム少女のヒジャブやベールを許可しろと言い出す。給食にハラルを出せと言う。火葬が基本の日本で土葬を許可しろと要求する、工場での仕事中にラインを止めてお祈りの時間を作れという、これが認められたら、そのうち職場にお祈りに必要な足洗場をつくれなどといいだすだろう。

だがこれをやったイギリスでは今とんでもないことになっている。以前によもぎねこさんも指摘しておられたが、サンドイッチチェーンで有名なサブウェイでハラルサンドイッチを提供するだけでは駄目で、店全体から豚肉を排除しろというモスリムの要求が通り、ロンドン中で多くのサブウェイ店がハラル店になってしまったという事実があるのだ。

サブウエイだけではない。今ロンドンではシャリア法廷というのが存在しモスリムはイギリスの法律ではなくシャリアによって裁かれている。イスラム教が極度な男尊女卑であり、女性が非常に虐げられている宗教であることは周知の事実だ。

例えば女性が強姦された場合、夫以外の男と姦通したとして反対に罰せられるとか、強姦犯はモスリム四人の男の証人が無ければ有罪にならないとか、夫が妻を勝手に離婚でき、慰謝料や養育費など払う義務がないとか、男は四人の妻をめとれるとか、幼児婚が認められているとか、家族の女が異教徒と通じたと疑っただけで、家族の男たちが女を殺す名誉殺人なども合法である。

モスリム移民は固まって住み、地域全体をモスリムの町にしてしまう。そこで好き勝手な法律を作りやりたい放題をやり、地元警察すら立ち入れなくしてしまうのだ。

このように自分らが地元社会の規律を守る必要がないと思っている人々を自国に受け入れるということは自国の破滅を意味する。モスリムは戦前の日本社会のように産めよ増やせよで子だくさんである。油断していると、あれよあれよという間に国はモスリム移民に乗っ取られてしまうだろう。