苺畑より In the Strawberry Fields

苺畑カカシと申します。在米四十余年の帰化人です。

聞きたくない話は聞かなくていい自由

先日Xでこんなつぶやきを見た。強調はカカシ

今日彼氏とデートだったのね それで、喫茶店で休憩してたら結構近くの席で例のシュライアー本について結構肯定的に話してる人たちがいて、2人で「出よっか(・ω・`)」ってなってそそくさと退場してきたんだけど、ああいう人たちって「周りにいるかも」とは思わないんだなぁと。ただ彼死は君がいなかったらあの人たちにいいにいってたかも」とわらっていたけど、こういう思いはさせたくないよね。Sさん

これについてジェンダークリティカルと呼ばれる反トランスジェンダー活動家の人が、彼女にこう返していた。

外でなぜ政治や宗教の話控えなきゃいけないのかね。そういうとこだけどね。本の感想って外で話すのを内容によっては配慮しなきゃならないの? Kさん

Kさんが「政治や宗教」と言っているのは、別の人が「政治や宗教の話と同じでこういう話は公共の場で避けるべき」と言ってたことを受けてのものである。

まずSさんと彼氏が聞きたくもない話を無理やり聞かされて不愉快だったので静かに立ち去ったというのは賢明な決断だったと思う。彼氏が腹を立てて他人の席に文句など言いにってたら喧嘩になっていただろうから。

しかし後半の「ああいうひとたちって、、」という部分はちょっと気になる。これはKさんも言ってるように、「なぜ政治や宗教の話控えなきゃいけないのか」に同意する。隣席の人たちには自分らが読んだ本の感想を話す権利があるはずだから。

この二人の会話では二つの権利が衝突している。それは自分が言いたいことを言う権利と、自分が聞きたくない話を聞かない権利である。幸いなことにSさんには店を去るという聞きたくない話を聞かない自由があった。だが長年右翼保守をやっている立場からいわせてもらうならば、我々は常に左翼リベラルの場違いで失礼な話を無理やりきかされており、聞きたくないからといって必ずしも立ち去る自由をもっていない。

例えばLGBTQ+概念の場合、アマゾンが梱包のテープに虹色活動家の旗印を使ったり、スターバックスで虹色キャンペーンが行われたり、それだけならまだしも学校で中高年の女装男がトランスジェンダーに関して中学生に講義したり、ゲイカップルが代理母の話をしたり、と聞きたくない生徒や子供に聞かせたくない親たちの言論の自由が日常的に著しく侵害されている。

私が長年勤めた職場でも多様性だの反差別だのといったポリコレ講習会が少なくとも一年に一度ひらかれ、従業員の出席は強制的だった。

もちろんSさんは絶対に読まないだろうから知る由もないが、まさにその「聞きたくない話を聞かない自由」がアビゲイル・シュライアーの著書「あの子もトランスジェンダーになった」の後半の部分の主題で、巷にあふれかえるトランスジェンダー思想から、いかにして親が幼い子どもたちを隔離するかという話が書かれている。

ところでKさんはフェミニストジェンダークリティカル(GC)と言われる活動家である。彼女はしょっちゅう合法な街宣デモをやっているが、その度にメガホンを持った柄の悪いトランスジェンダー活動家の男たちに囲まれてスピーチを妨害されている。そんな彼女から言わせたら、喫茶店で読んだ本の感想を述べることすら、TRAに遠慮しなきゃならないのか、と腹が立つのは当然の話だ。